東京硝子管製造株式会社の閉鎖から7年。東京で一番の箱屋になるために東都紙器工業のゼロからの挑戦が始まります。 (前編はこちらからご覧ください。)
新しいことに挑戦する精神と創意工夫
実績がなにもない時代。大手印刷会社の下請けの仕事を取っていき、印刷後の抜貼加工を行うことでノウハウと知識を蓄積していきました。
それと同時に当時の社長の弟である保坂英夫(現・専務取締役)が独学で研究し、高いレベルの印刷紙器技術を獲得することができたのです。
当時、紙の印刷から加工までワンストップで対応できる会社はほとんど存在しませんでした。
弊社が印刷から加工までトータルで対応ができるようになることで、下請けの仕事ではなく、直接仕事を取っていけるという自信を深めていきました。
そして東京硝子管製造株式会社時代の取引先である医療機器メーカー様に「印刷の仕事ができる」と話したところ、昔からの信用があったため仕事をいただくことができ、実績を作ることができたのです。
現在の場所に社屋を建てたのもこのころ(昭和45年)です。
このときの新しいことに挑戦する精神と創意工夫は今でも根付いています。
バブルの崩壊と時代が求めるものの変化
本社社屋完成後、昭和54年に墨田商品センター、昭和63年に江戸川商品センター、平成3年に市川商品センターを新設するなど、順調に事業を拡大してきましたが、バブルの崩壊という戦後最大のピンチを迎えます。
売上が激減するとともに、消費者の嗜好の多様化による多品種少量の生産や品質の向上が顧客から求められるようになり、時代の変化も感じていました。
何かを変えていかなければならない。ここから東都紙器工業の技術革新が始まりました。
技術の革新、技術の継承
平成8年にはMacintoshを導入。企画から製版までを効率化し、平成17年にはCAD/CAMシステムを導入したことで、短納期の要求に応えることができただけでなく、いろいろなパターンの箱を試作できるようになり、企画力を強化できました。
また、同じ年にホームページを開設しました。当時、ホームページを開設している同業社はそれほど多くはありませんでした。ホームページからの問い合わせが増え、強力な集客ツールとなったのです。
一方で東都紙器工業には勤続30年以上のベテラン職人が数名おり、こういった人たちの高い技術力の継承と技術の革新による効率化の2本の柱が東都紙器工業の強みともなっております。
いつの時代にも人々を「ひきつける」化粧箱を作り続けたい。東都紙器工業の挑戦はこれからも続きます。